不用品 回収の調査の結果

父と母の結婚は、あるいは今でいう「セレブ」どうしの華やかなものだったのかもしれない。 優等生だったとはいうものの、母が子供の私に「勉強しなさい」などと言うことは、一度もなかった。
これから書いていくつもりだが日中学生のとき、私かロクに学校へも行かずアルバイトばかりに精を出しているときでも、いつも、ただ、「いいお友だちと遊びなさい」とだけ言っていたものである。 ちょっと先回りして、そのずっと後のことを書いてみると、その当時は、自分が幼すぎたせいか、その母の「いいお友だちと遊びなさい」という言葉のほんとうの意味が、全然、理解できなかった。
しみじみと身にしみてわかったのは、それから長い時を経たあと、私か50歳を過ぎたあたりからである。 ある日、ふと自分がここまで順調に生きてこられたのは何か原因だろうと考えて見たとき、やはり、その第一に挙げられるものは、たくさんのいい人と出逢うことができたからだ、と気づいたのである(たしかに悪い友と付き合うこともあったが、彼らとの関係は決して長続きせず、類が友を呼ぶとはならなかった)。

いい人との出逢いが、これほどまでに人生を豊かにしてくれるI「ああ、いつも母が言っていたのは、このことだったのか……」と、私はそのとき初めて、目から鱗が落ちる思いを持ったものだった。 そう考えれば、早く亡くなった父と同じように、母もまた、私にとってはかけがえのない教育をしてくれたのだと、改めて心の底から感謝したい気持ちになるのである。
私か通った小学校(当時は、国民学校といった)は、八重洲の家の近くで、東京駅八重洲口のすぐ前にあった京橋昭和小学校である。 戦後しばらく経ったあと、東京オリンピック間近の昭和307年にいったん廃校となったが、廃校と同時に中央区立城東小学校として生まれ変わり、現在も、私か通っていた頃の校舎が、ほとんど当時のまま残されている。
先日、ここを訪れてみて、たいへんな懐かしさをおぼえたものだったが、先生方のお話によると、現在も校舎の大半が残っているのは、少しでも災害に強い校舎を、という願いをこめて建てられたからだということだった。 京橋昭和小学校という校名からもわかるように、この小学校が設立されたのは、関東大震災後の昭和4年のことだったのである。
昔、T島師範を卒業した後、この昭和小学校で教師をしていた頃の伯母のE藤C代子の写真を私か持っていたので、パソコンで拡たいしたものを寄贈させていただいたが、校長の千葉先生も、たいへん興味深くごらんになっていたようだ。

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